軸がぶれまくりの両足ピボットの連続で、当初とはまったく別の地点に来ています。方向転換にあたって軸足を動かしてはいけない理由などどこにもありません。「これまでこの技術には時間もコストもかけた、だからこの技術をコアにして進めなければならない」などという余計な思い入れが、事業の進展を妨害します。筋が悪い技術だと見極めたら、さっさと放棄して、より有望な派生技術をコアにすればいいのです。ここで執着したばかりに足踏みしてしまった、というのを何度も繰り返しました。今では、過去の技術に対するそのような未練はありません、といいたいところですが、最近の技術についてはそうでもないかも…
方向転換の際に軸足を動かすというのは、ピボットという言い回しの由来である球技のルールからすれば反則ではあります。しかしながら、発明は人為的ルールを破ってなんぼです。発明が従うのは自然法則と経済原則のみ。技術的に実現可能であってコストに見合うなら何でもあり(社会規範に反する発明も、結局は代償が高くつくので、経済原則に基づいて避けられます)。
昔からスポーツ全般に興味がないのですが、スポーツとは人為的ルールによってなるものだからです。球を持って歩いてはならないとか球に手を触れてはならないとか球を落としてはならないとか球を前に投げてはならないとかいった、それ以上さかのぼることを許されない根本的ルールが、それぞれの種目そのものと、それらの間の差異を規定します。根本的ルールの根拠など問われません。そこを疑ったら成立しないのです。問うこと、疑うことを根幹としてきた人間は「なんで球を持って歩いてはいけないの?」と考えるわけですが、「そういうルールだから」と切って捨てられます。だったら「なんでそんな競技をさせられなきゃならないの?」となります。
活動の軸を固定せず、印刷や写真からずっと遠くまで流れ流れてきた根無し草だからこそ、特定の分野に軸足を置いてぶれずに専門性を深めてきた人々にはできない妙ちくりんな発想をひねりだせるのだと思っています。
ただし、発明の特許化の段にはルール遵守が必須です。その上で、ルールについて問い直す姿勢があれば、「このルールならここまで許されるんじゃないか」とルールの隙間をかいくぐることだってできます。一方、発明においても、既存のルールや慣習を充分に把握・意識すればこそ、それをひっくりかえすこともできるわけです。このようなルールの内と外との往還は、単純なルール無視とは対極のものです。
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