発明は技術的問題の解決を目的とするだけではありません。課題の解決とは異質の発明があります。
課題の解決というのは、周知の課題、あるいは発明者が直面した課題に対する解決です。周知の課題とは、たとえば青色LEDとか何かの病気の治療薬の開発といった、必要が社会的に広く認知されてきたものです。発明者が直面した課題とは、たいてい、ある装置の性能向上とか、何かの製造の低コスト化とか、つまり技術の改良です。特許の大半は後者の解決方法でしょう。前者は多くの競合者による熾烈な開発競争を制したわけですから賞賛に値します。このように待ち望まれた発明であるという点は、特許の審査における進歩性の判断にも影響すると審査基準に定められています(特許・実用新案審査基準第III部第2章第2節3.3(6)「審査官は、商業的成功、長い間その実現が望まれていたこと等の事情を、進歩性が肯定される方向に働く事情があることを推認するのに役立つ二次的な指標として参酌することができる」)。
しかし、解決すべき課題が先立ち、それを解決する手段として発明に到達する、という着想の経緯を、発明者が必ず辿るとは限りません。問いがないところで、突然変異のようにへんてこな答えをひねり出してしまうハタ迷惑な人間がいます。だいたいは無用の長物だったりしますし、世の中に必要とされずに埋もれはてます。
芸術とはむしろそうしたものだったはずで、自発的・内発的動機から、あるいはやむにやまれず衝動的につくられてしまったガラクタの中で、ごく一部の例外が何かのはずみでたまたま認められる、というのが本来のあり方でしょう。お題と対価をあてがわれた注文制作者も、最初からその立場にあったわけではなく、多くは好きでこしらえるところから出発したと思います。世間的需要と趨勢への入念なリサーチに基づく、明確な問題意識とコンセプトメイキングに裏打ちされた、世の中の必要に応えるアート。ただただバカバカしい。
発明は芸術のように内発性で完結するものではないでしょうし、最終的には産業的価値でふるいにかけられるにしても、着想の時点では、世の中の必要とはまったく関係なく生み出されることはあると思います。
課題の創出というのも、発明としてのランクが一段上な気がします。
請求項に係る発明の解決すべき課題が新規であり、当業者が通常は着想しないようなものである場合は、請求項に係る発明と主引用発明とは、解決すべき課題が大きく異なることが通常である。したがって、請求項に係る発明の課題が新規であり、当業者が通常は着想しないようなものであることは、進歩性が肯定される方向に働く一事情になり得る。
特許・実用新案審査基準第III部第2章第2節3.3(2)
問題そのものの発見は、ベタな課題解決より概して抽象度が高く、つまり難度がより高くて、価値も高いという気がします。
ならば、特定の問題に縛られない、何の脈絡もなくいきなり降って湧いたような発明は、さらに抽象度が高くてエラい、と思いたいところですが、なかなかそのようには遇してもらえません。
特許出願では、課題がまずあって、それに対する解決のために発明しました、という体裁が求められます。明細書の書式には【発明が解決しようとする課題】と【課題を解決するための手段】があらかじめ組み込まれています。【発明が解決しようとする課題】の記載は必須ではなく、また本来審査はクレームのみに対して行われるべきですが、「課題」とその「解決」というストーリーを参酌することを重視する度合は審査官によって異なるようで、進歩性の判断にあたって課題解決の図式が大きく影響する場合があるようです。先行技術との対比なしでは、当の技術を位置づけあぐねるのかもしれません。ずっとやってきた一連の出願に記載の発明にしても、特定の課題を解決するためのものと考えるには無理があります。「新しい装飾効果を生み出す」と大まかに課題を設定することは可能ですし、それらしく課題を仕立て上げるわけですが、所詮後づけですし、ストーリーとして弱いようです。いきおい辛い審査となります。
解決すべき明確かつ具体的な課題ありきの発明が、審査上有利なように制度化されているのではないでしょうか。改良発明や、既知の課題に対する発明の方が審査官受けがよく、真に新しい発明の意義はなかなか理解してもらえない、という印象があります(ただし、最近改良発明を出願するようになり、それに伴い私の練度が上がってきたので通りやすくなってきた、という事情もありますので即断はできませんけれど)。
これは、特許制度が「技術の累積的進歩」という理念に基づく以上、やむをえないのかもしれません。技術は積み重ねによって改良されていくものであるから、その重要性も、既存の知識に何を付け加えたかで測られるというわけです。おのずと、そうした継承の連鎖から外れた、ほんとうに独自の発明は、理解されにくくなります。
どこかで見た光景です。多くの美術史は進歩史観に依拠し、影響関係によって編成されます。その流れに属さない鬼子は主流とは見なされません。同時代での評価にしても、流れに乗ったフォロワーがもてはやされ、反時代的孤高の人は「なぜ今これ?」と無理解にさらされます。
発明のフィールドに来てまで、しがらみと因襲による判断から逃れられないのか…。でも、心配には及びません。特許の審査には、技術という確固たる共通基盤があります。技術的貢献が重要なのですから、ちんまりした個々の課題解決に、もっと大きな視野の貢献が劣るはずはありません。当初はとっつきにくいとしても、理路を通した主張で理解してもらって、進歩性等を満たしていれば、特許されるにちがいありません。それが突飛な思いつきどまりか、価値ある発明かは、やがて社会や市場が決めるでしょう。
[…] 「課題がまずあって、次にその解決を目的として発明がなされる」という図式は、あとから整備されたストーリであって、必ずしも実態に即しているとは言えないことは、前に述べたとおりです。 […]