コンテンツへスキップ →

【特許】「上を出せ」に平然と応じるシステム

特許というのは、技術と発明という特殊な形式を通じてではありますが、特殊な関心を他人と共有できて、さらに公共的意義を有する知的資産にまで高められる可能性を拓いてくれるツールです。特殊さでいったら、人文諸学や芸術といったハイカルチュアの各分野だってそれぞれに特殊です。それらと技術との差は、様式の差でしかありません。そこに価値の優劣はありません。ハイカルチュアが技術より高尚だというような思い込みは前世紀の遺物というべきでしょう。

その上、技術は、人文諸学等と異なり、基本的には完全に実証可能かつ完全に再現可能かつ完全に翻訳可能であり、誤解の余地がないほど明確化することができ、格段に共有可能性が高いと思います。そして、その成果は誰もが享受できます。

特許出願と、他の、送り手が表出等した何かを受け手が評価等することで成り立つ分野との間で、決定的に異なる点があります。

特許出願においては、出願人は審査官に、その発明を完全に理解したうえで正しく評価するよう要求することができ、要求が満たされないと判断したなら対抗手段を取れます。

他に、送り手が、みずからの考えや創作物等に関して、受け手にそのように求めることができる分野があるでしょうか。

公刊された書物であれネット上の記事であれ、読み手は勝手に都合よく理解して好きなように評価するだけです。

ブログや会話で、相手がわかってくれるように説明したり議論したりすることはできますが、相手がわかってくれない、あるいは理解する能力をもたないならばそれきりです。

特許出願においては、送付された拒絶査定通知書に対し、審査官はこの発明をわかっていない、と出願人が考えるなら、理解できるよう意見書で説明することができます。現時点では、審査官に対して1回または2回の反論の機会が与えられ、加えて多くの場合には非公式にFAXや面接審査で少なくとも1回の反論ができます。その結果拒絶査定となり、この審査官では埒が明かない、となれば、3人の審判官からなる合議体の判断を仰ぐことができます。

審判の審決に対しても出願人が不服なら、知財高裁、最高裁まで争うことが制度上は可能です。

このように、特許制度においては、特許出願を審査・審理する側の無理解・誤認・誤謬等を改めるよう求めることができ、さらに査定や審決を上級審から再検討してもらう手段が用意されています。

つまり、クレーマーがよくやるあれです。「お前じゃ話にならん。上を出せ上を」ってやつ。審判「請求」なのですから、クレームそのものです。こういうクレームに対処するしくみが完備されていて、必要があれば誰でも遠慮気兼ねなく利用できるのですよ。拒絶査定不服審判は「下の者の対応にご不満とのことですので上席を呼びます」と大枠は同じかと思います。それもトラブルに対し変則的に上が出てくるという非常時対応ではなく、日常業務の一環として涼しい顔で受け付けてもらえて(まあネット経由なので顔はわかりませんけど)、そのために人員が配置され、というか昇進システムに組み込まれていて、特許庁という組織内の一部門として整備されているわけです。ここまでやってくれる官庁を他に知りません(知財高裁まで行くと、特許庁とは独立した組織に移行しますし、中立的な第三者が介入しての仲裁という恰好になって事情が変わってくるのでしょう。そこでは裁判官がレフェリーであり、特許庁側は対戦相手ということになりそうです。でも、審判は審査の続審であり、審査官や審判官は対戦相手でもありレフェリーでもあるような気がします。それから、国税不服審判というものもありますが、「執行機関である国税局や税務署から分離された別個の機関」とされています)。民間でも、ちょっと思い当たりません。しかも、これ全部特許料等を原資とする独立採算で維持されていて、税金は使われてないらしいのです。特別会計は槍玉に挙げられがちですが、特許特別会計は健全なのではないかと思っています。

なお、特許でクレームというと特許請求の範囲を指すことが多いのでまぎらわしいですが、ここでは日本語でよく言う「苦情」の意味で使ってます。とはいえ、つきつめれば同じことかもしれません。

論文の審査等では、口頭試問での指摘や査読コメントに反論できたとしても、審査者の交代を要求する余地はなさそうです。学位論文の指導教官や査読者に「あんたわかってない、ちゃんと読んでくれ」ともいえないでしょう。

芸術品の評価でも、俎上に載せられるだけで、あとは言いたい放題に曝され、制作者たるものそれを受け入れるべきだとかいうような教育までなされます。

これらの分野の発信者にとっては、無理解にあらがうすべはないのです。評価する立場の人間を評定するしくみも整備されていません。評価する側とされる側とは、多くの場合で非対称です。審査や評価の結果には唯々諾々と従うほかありません。

特許では、互いの理解をすり合わせることができ、どこが争点なのかを明確にした上で、どちらの主張が正しいかを、上級審で裁いてもらうことができます。審査官の査定自体の妥当性が問われるのです。

最終的な結果は納得できないものだったとしても、相手の理解が間違っていると思うなら、それを思う限り主張することができ、審査官や審判官にその主張を検討するよう求めることができます。 無効審判についてはわかりませんが、権利化の過程ではそうだと理解しています。

その際に議論の共通のよりどころとなる特許・実用新案審査基は、特許庁の膨大な審査の蓄積を踏まえた叡智の結晶で、どこぞの大学の論文審査基準とは異なり、「基準」と呼ぶにふさわしいものだと思います。審査官は審査の過程でことあるごとにこれを参照するらしいですが、私も主に進歩性の章を何度も読みました。

特許出願には知的な格闘技といった面もあると思いますが、このようにルールが確立しているからこそゲームとして成立するのでしょう。ルールが完備され共有されているがゆえに、出願人側であっても、「この拒絶理由ならしょうがない」というふうに拒絶査定等の内容に納得でき、制度が円滑に運用されます。

それでも、どうしても判断が分かれる案件が出てきます。特許庁では、審査官により審査結果にばらつきが出てしまうということを否定していません。多くの人間が携わっている以上それは当然ですし、審査官の判断は尊重されます。同じ案件であっても、審査官それぞれの判断が異なることがありうると認めた上で、本来特許されるべきだった発明を誤った拒絶査定から救済するための受け皿として、審判制度が用意されている、ということだと思います。審判では公正に判断してもらえると期待することにします。もしそれが果たされなければ…上に訴えるだけのことです。

カテゴリー: 知財

2件のコメント

  1. […] 「上を出せ」に平然と応じるシステムに書いた通りに上に訴えて、上は言い分を認めてくれました。しかし下は上の意向をくみ取ることをせず、上が出した結論の範囲でしか処分を改めません。また上に訴えざるを得ないのですが、こんな効率の悪い運用でいいんですか? […]

  2. […] ひとつは、検索エンジンは個々のwebサイトを評価するが、特許庁の各種審査は評価ではない、ということです。ほぼ3年前に、ここで【特許】「上を出せ」に平然と応じるシステムという記事を投稿しました。基本的にはこの理解を今も維持していますが、完全に理解を誤っていた点がありました。当時は特許の審査も評価に属すると考えていましたが、これは誤りです。評価とは、独自定義でない限りは、対象の価値を定めることです。特許審査は発明の価値についてはいっさい判断しませんから、どうあっても評価ではありません。意匠審査や商標審査も同様です。 […]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です