「技術オリエンティドな写真」ということをかつて提唱していました(こことかここも)。
新奇な技術(新規な技術というよりも。あるいは変な技術)の先導によって、見たことのない写真をつくる。手段の目的化をあえて行うわけです。
まったく理解されませんでしたね。写真を前に「何が言いたいのかわからない」とか言われるわけですが、言いたいことを言うために写真をやっているわけではないのですから当然です。これに関していつも思い出すのは、小学生のころ読んだ星新一のエッセイにあった、戦争反対を訴えたくて小説を書くくらいなら、戦争反対とストレートに主張したり行動に出た方がいい、という指摘です。言いたいことがあるんならその通り言えばいいだけの話で、他を経由させるなんてまだるっこしい、ずっとそう思ってます。アートであれ何であれ、言語化可能な内容やメッセージが中心になければならないというのは、米国流教育の悪しき弊害だと思います。
伝達媒体としてのアートがあってもいいですし、いろいろあっていいと思いますが、ならば、技術オリエンティドなアートもあっていいはずです。というより、基本的に何もかもやりつくされたなか、未踏の技術によってしか、見たことのないものの実現はできません。メディア・アートが総じてつまらないのは、技術の詰めが甘いのと、その技術自体が予想の範囲内だからです。
同様に、技術オリエンティドの発明があったっていいでしょう。技術オリエンティドな発明とは、課題の解決手段として技術が用いられた発明ではなく、技術そのものに導かれて生み出された発明のことです。
「課題がまずあって、次にその解決を目的として発明がなされる」という図式は、あとから整備されたストーリであって、必ずしも実態に即しているとは言えないことは、前に述べたとおりです。
偶然得られた発明なんていくらでもあるでしょう。失敗から、当初の目的とは別の発明にたまたまたどり着く、といったエピソードはおなじみです。有機化合物やら新素材やらをとりあえずつくってみて、あとから使い途を探すなんてのもよく聞く話です。まったく予想外の成果はだいたい、あらかじめ敷かれた路線から外れたところで出てくるという印象です。
これらの発明では、課題が前もって設定されていたわけではありません。課題そのものが未知であり、効果によって事後的に発見されます。いわば、あとから見つかる効果を得ることが課題であり、課題=新たな効果、とも言えます。
視覚的効果を追求する場合にはとりわけ、発明ができてみてはじめて、こんな効果がほしかったのだ、と課題がようやく追認されます。発明に先んじて効果がわかっているなら、その効果はすでに予想可能であって月並です。価値のある視覚的効果はそれが得られるまで予見できず、課題も事前には具体化しません。
課題から発明に単線的にたどり着くような予定調和的推移では、効果は課題に縛られてしまい、課題が求める以上にはなりようがありません。課題以上の効果が得られたなら、それはもう、当初の課題を踏み越えた、偶然に得らえた効果に他なりません。
新しい分野が勃興しては、解決可能な技術的課題が大枝から刈り取られていき、やがて些末な落穂拾いに移行します。課題解決の図式に拘泥していたら先細りでしょう。真に新しいものは既知のものから容易には想到不可能であって、課題を超えたものです。
技術の先行を否定して課題や需要のみに従うなら、既視感のあるものしか出てこないでしょう。広告費等の販売管理費を無尽蔵に注ぎ込める巨大プレイヤーならいざ知らず、製品一本で勝負する限りは、市場優先の製品開発であっても死屍累々で、成功するとは限らないのは、技術オリエンティドの場合と大差ないような気がします。どのみち数打って当てるしかないなら、技術を追い求めて突っ走るのこそが弱小資本に適した生存戦略です。
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